正義の話をしよう
What’s the Right Thing to Do?
僕は学生時代、哲学が小難しくて苦手だった。哲学自体は嫌いじゃないが、言い回しや文献などが堅苦しくてよく眠れるので、結論まで辿り着かないのだ。それがある人の公開講座を見て、哲学に対する印象がちょっと変わった。今回は正義というお話。
そのある人とは、ハーバード大学の哲学者 マイケル・サンデル(Michael J. Sandel)氏で、NHKのハーバード白熱教室という番組で見かけたのが最初の出会いだった。その公開講座は具体例がとてもわかりやすく、また、考えさせられる題材ばかりだった。
そのサンデル氏が書いた考えさせられる本を紹介しよう。『 これからの「正義」の話をしよう 』という本で、繰り返し読んでいるが、何度読んでも毎回考えさせらる。
路面電車が100km/hで走行中、ブレーキがまったく効かないことに気づく。前方では5人の作業員が線路の保守を行っている。このままだと5人ともひき殺してしまう。手前には支線への分岐があり、運転手の操作でその支線に電車を進めることができるが、その支線にも1名の作業員がいて、支線に進めれば、その1名が死ぬ。さて、5人の命を救うために1人の命を犠牲にすることは正義か。
参考:マイケル・サンデル 著 『 これからの「正義」の話をしよう 』より
恐らくほとんどの人はやむを得ないと容認するだろう。ではちょっと視点を変えよう。自分が運転手だった場合と、自分が傍観者だった場合。感じ方や結果は同じだろうか。もっと平たく言えば、自分が殺人を犯す立場と目撃者としての立場とでは、導き出す答えは同じかっどうか。仮に同じ答えだったとして、そこに至る考え方のプロセスや、事故が起こった後の感じ方が同じだとはとても思えない。
どちらが正義か
では実際に起こった出来事ではどうだろう。
2010年9月7日、尖閣諸島付近の海域をパトロールしていた巡視船「みずき」と「よなくに」に、中国籍の不審船が衝突し破損させた事件で、日本政府の弱腰な対応に憤りを感じた海上自衛官が、同11月4日、衝突の一部始終を撮影した44分間の動画をYouTube上に流出させた。これによって全容が明らかになるが、この行動は正義か。
良くやったって声とルールを破ったことに対する厳しい意見と、当時は半々だったように記憶している。では、事実を公表せず不審船の船長も御咎めなしで強制送還をした、当時の民主党政権は正しいだろうか。この問題を「それはそれ、これはこれ」などと、本音と建前でしか片付けられないとしたら、残念な日本人の典型と言えるだろう。
それもこれも1つのまとまった問題。危機感を感じた現場の自衛官は、正義感をもって規則を破ってまで真実を公開した。時の日本政府は、国益を損ねないために一部非公開にしてやり過ごそうとした。
一自衛官の正義を、個人的な自己満足と片付けてしまうには、あまりにも問題が大きくリスクが高い。自衛官の立場で考える正義と国民を守る日本国政府の立場で考える正義。言葉の上ではどちらも正義。
ではもう一つ、時代をさかのぼって明治維新はどうだろう。
結果を知っている現代人は、今日の日本国に導いてくれた正しい革命と言うかもしれない。しかし、幕府に反旗を翻す行為はデモの領域を遥かに超え、テロに近しい行動とも言える。
幕府を最後まで守ろうとした会津藩や五稜郭に籠城した榎本武揚ら旧幕府軍こそ正義のはずなのに、幕府を倒し、髷を落として、脇差を置いた薩長の方が正義だと言わんばかりの扱いはどうしてなのだろうか。
赤穂浪士はどうだろう。主君の無念をはらすために復讐に立ち上がる赤穂藩士に正義はないのだろうか。
どちら側に立っているのか
ここまで並べてみると、どうやら、どちらの立場に身を置いて考えるかによって ”自分なりの正義” が決まるようだ。戦国の時代から「義は我にあり」と戦に際して鼓舞していた。人が言う「正義」は自分にとっての正義であって、他人にとっての正義ではない。”自分なりの正義” を軸として善悪を判断していると言える。ということは、絶対的な正義などないということだろうか。考えれば考えるほど混乱してくるが、だとしたら「悪」を定義することは簡単だ。
自分なりの正義をもたない者や考えようとしない者は「悪」。
しかしこれもまた、自分なりの正義に立った考え方なので、立場が違えば考え方も異なるだろう。
みなさんは、5人の作業員と1人の作業員、どちらを助けますか。
そして、みなさんの正義はどちらにありますか。
正義の話をしよう
というお話でした。
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