ギリシャの絵描きと唐の絵描き
Greek designer and Tang designer
デザイナーの習性なのか、デザインがうまく決まらないとき、あれこれとこねくり回して挙句、どんどんどんどん、もりもりもりもり、付け加えていっちゃう現象ってあるあるだよね。世の中シンプル、ミニマルが好まれる時代。ここは原点に立ち返って、心の鏡というお話。
その昔、唐の国の絵描きとギリシャの絵描きが我こそは最高の絵描きだと譲らないので、どちらの言い分が正しいか、腕試し対決をすることになった。
回廊を挟んで扉と扉が向かい合う部屋を緞帳で仕切って絵描き対決。
唐の国の絵描きは100色の絵の具を用意させて制作を始めた。
ギリシャの絵描きにも何が必要なものがないかと聞くと、ギリシャの絵描きはこう答えた。
「私どもの作品に絵の具は必要ありませぬ。色彩を必要としておりませぬゆえ。きれいさっぱり錆を落とすこと、やらねばならぬ仕事はそれだけです」その後扉を締め、部屋の中を磨き始めた。
参考:スーフィー寓話「ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き」より
すっかり汚れの落ちた壁は、まるで晴れた空のように明るく輝いた。
作業を終えていよいよ対決の時。まずは唐の国の絵描き作品。部屋に入ったとたんに、描かれた絵画の素晴らしさに、ただただ唖然とするばかりだった。
次にギリシャの絵描きの番だが、ギリシャの絵描きは壁や床をピカピカに磨き上げただけで絵など描いてはいない。いったいどういう事なのか。
ギリシャの絵描きは彼らの部屋の間を遮っていた緞帳を引き上げた。するとどうだろう、唐の国の絵描きの描いた景色が浮かび上がった。彼らが磨いた壁に反射して映し出された鏡像。唐の国の絵描きの部屋で見たばかりの絵画が、より美しく、輝いて見える。それはまさしく眼を奪うような光景だった。
イングランドのロマン派詩人 パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)がその詩『 アドネース 』でこんなことを記している。
色彩を多く取り入れれば取り入れるほど、鮮やかさは失われ薄暗くなる。色彩が雲ならば無彩は月。たとえ雲がどのような色に染まろうと、たとえ雲が輝いて見えようとも、その色も光も、雲ではなく雲を照らす星や月、太陽から来るものであると知らねばならぬ。
参考:詩集『アドネース』より
ギリシャの絵描き達は心がある。磨きに磨かれた純正な心がある。
純正な心というは磨き抜かれてくもり一つ無く、それは疑う余地も無い鏡。その鏡は無数のありとあらゆる種類のビジョンを受け取り映し出す。
以前、光の宮殿( Palace of the light )でもピカピカに磨き上げた話を書いたし、しばしば磨き上げる行為は心に繋がる話をしている。
デザイナーいやすべてのクリエイターは、他人より感情豊かで情緒的。もちろん感覚的なものだけでなく、技術を磨くことやスキル向上には貪欲で、勉強熱心なことも知っている。いつもそばで見ている。
でもだからこそ、時には技術やスキルに頼らない、純正な心で、心の鏡で、デザインを心から楽しむことも、心から楽しませることも必要なんじゃないかと思うわけです。
ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き
というお話でした。
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ゲツコーギルド合同会社 CEO兼プロデューサー
2016年に東京下町から瀬戸内の離島に移住。クリエイターの働き方や人財育成、再生、地域でのクリエイティブやICTを活用したブランディングや地域創生、事業再生を得意としたプロデュースやディレクションで活躍中。メガネ&広島弁や伊予弁など方言女子が大好物。個人的には懐古的なモノがスキ。ネガティブ属性だがユーモアを忘れない。1970年 江戸下町産。