あてにするものはあてにならない

あてにするものはあてにならない ~ 信頼しない関係性

あてにするものはあてにならない

Not to be relied upon

宮沢賢治と言えば「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」が有名ですが、今回はどちらでもなく宮沢賢治の初版本『春と修羅』に「昴」という詩があり、大変興味深い表現が出ているので紹介したいと思う。執着というお話。

この初版本『春と修羅春と修羅は大正13年4月20日、なんと自費出版と言う形で出版され、部数は初版1000部、定価は2円40銭。
実際には100部程度しか売れなかったようだ。
その『春と修羅』の中に「昴」という詩があり、詩の後半には、こう書かれている。

金をもつてゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろつとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない

最後の あてにするものはみんなあてにならない という一節が妙に説得力がある。
なるほどなぁ上手いこと言う。

解釈はいろいろあろうが、僕は「一つのことに執着しすぎるとロクな事にはならない」と言う意味に捉えた。

ベンチャー企業を転々とし、起業をしたり組織を立ち上げたりしてきたが、いつも誰かの教育や育成をしながら指導的立場だった。

上司としてというより仲間として、チームやプロジェクト、今は10名程度のユニットのメンバーたちと一緒に仕事をしている。
それぞれ個性があって、一人一人を信用して制作やデザインを任せている。

誤解を恐れずに言うと、僕はメンバーを「信用」はしているが「信頼」はしていない。「信用」と「信頼」はどう違うのか?
広辞苑にはこうある。

信用 = 信じて任用すること
信頼 = 信じて頼ること

広辞苑オンライン

僕なりの勝手な解釈だが、頼るって行為は頼る者にとってはありがたい言葉だが、頼られる者はいい迷惑だろう。頼られる側の都合は一切無視して一方的に頼ってくるわけだから、頼られる方はたまらない。

自分のことで手一杯なのに、そこにさらにプレッシャーがのっかる訳だから精神的にも危うい。頼られることに誇りを感じる人も居るが、それが恒常的になれば重荷にしかなり得ない。

そこで、先ほどの宮沢賢治の一節。「あてにするものはみんなあてにならない」は、前後の関係から考えると「一つのことに執着したところで、期待した結果は得られない」ということなんだと思う。つまり、

人やモノに執着し、あてにしすぎると、それが相手の負担になったり、過信することによって、思うような働きができなくなり、思うような結果には繋がらないものだよ?

と言ってる様に聞こえる。過信することの警告にも聞こえないだろうか?

以前、イソップ寓話「水辺のシカ(Deer of the waterside)」をテーマに書いたコラムで、思惑通りにはいかないって話をしたが、「昴」と「水辺のシカ」が大きく違うのは、「水辺のシカ」は過信しすぎた結果を後悔として描いてる一方、「昴」は執着することの無意味さを警告する意味で伝えようとしている。

頼ることで相手を潰してしまうかもしれない。そう考えると、軽々しく「信頼してるよ」などと余計なプレッシャーを与えたくないという思いと、信頼していてあてが外れたときに「信頼していたのに裏切られた」などと邪悪な気持ちに苛まれたくないという二つの理由で、僕自身はメンバーにはあまり寄りかからず、メンバーにはのびのびとした活動をして欲しいと考えている。

でも実際に僕自身、メンバーに支えられているなぁと感じているので、結果的には頼ってる部分はあると思うけどね。

ちなみに僕自身が信頼に足る人物かどうかは別として、頼られることを誇りに感じるタイプで負担にはならないので、メンバーに頼られるのは嬉しい。
今回話したことは、あくまで僕がメンバーに対して頼らない様にしているという心構えの話であって、メンバー同士が、或いはメンバーが僕に対して頼ってはいけないという話ではない。

ただ、ある特定のメンバーが頼れるからと負担を背負ってしまうことは、頼られるメンバーの精神衛生上、避けるべきことなので、自分が楽したいがために誰かに頼る行為は認めないし、誰かにおんぶにだっこにならない様に注視はしている。

まぁ、プロフェッショナル集団なので、プロ意識があればそうはならないだろうし、メンバーの誰かが負担になってると感じたら、フォローしあえる関係性が構築できる素敵ユニットだと信じている。

これもプレッシャーか。

どんな組織でも、何かに執着せずに、柔軟にリスク回避ができる関係性をつくることが、組織運営において重要なファクターなんだろうと、この「昴」を目にして考えたわけです。

あてにするものはあてにならない

というお話でした。

~ 本文で紹介された書籍をご紹介 ~

『春と修羅』