草枕

草枕 ~ 人の心を豊かにするが故に

非人情の美学

Three cornered world

ビジネスや人間関係の摩擦に疲れ、すべてを投げ出してどこかへ逃げ出したくなる瞬間はないでしょうか。当たり前ですが、人が生きていくためには稼がなければならない。どうせ稼がなくちゃならないなら、少しでも面白愉しく働きたい。しかしそう思いながらも現実はそれほど甘くはない。今回は、「束の間を愉しむ」というお話。

「智・情・意」のバランスと生きづらさの正体

文豪 夏目漱石の代表作『草枕』の冒頭、次のような有名な言葉があります。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

(知恵を表にひけらかすと角が立つ。情に従って行動すると流されてしまう。自我や意地を貫くと窮屈だ。兎に角、人間世界は生きにくい)

出典:夏目漱石 著 『 草枕 』より

この有名な一節に続けて、漱石は次のようにも述べています。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故(ゆえ)に尊い。

(人の世はどこに行っても同じようなものだ。それならば余暇を活用して束の間でも幸せな時間を過ごすほうがどれほどいいか。あらゆる芸術はのどかな時間と心を豊かにしてくれるのだから、それは尊いと言える)

出典:夏目漱石 著 『 草枕 』より

この考え方は現代にも深く通じます。世俗の煩わしさから一歩引き、客観的な視点で世界を眺める大切さを教えてくれます。

理屈や論理(智)ばかりでは周囲と衝突します。しかし感情(情)に流されすぎれば自分の軸を失います。また自我(意)を張り続ければ身動きが取れなくなります。

日常のストレスは、この「智・情・意」のバランスが崩れた時に発生します。

だからこそ、感情的になりすぎず冷静に俯瞰する視点が必要です。その客観的な姿勢こそが、生きづらさを解消する第一歩となります。

「非人情」という客観的アプローチ

『草枕』で提示された「非人情」とは、冷酷になることではありません。むしろ物事を芸術鑑賞のように、一歩引いた場所から観察する客観的な態度を指します。

渦中にいる時は、悲劇やトラブルに見える出来事もあります。しかしカメラを引いて遠くから眺めれば状況が変わります。ひとつの構造や課題として冷静に対処できるようになるのです。

感情の波に呑まれそうになった時こそ、主観を一旦手放しましょう。

「物語の観察者」になる意識を持つことで、落ち着いた判断が可能になります。

創作と人生を豊かにする過ごし方

モノづくりに携わる人は、机に向かうだけが仕事ではありません。仕事ばかりの毎日では、本当の面白さを生み出すことは困難です。

人に夢を与えるクリエイターだからこそ、余暇を大切にする必要があります。オフの時間で充電してこそ、楽しさを届けることができるのです。漱石が記したように、人生をくつろいで過ごすことは理想的な姿と言えます。

老後まで待つ必要はありません。日常の中でワークライフバランスを意識することが重要です。身を削るような働き方の先に、本当に望む成果はあるでしょうか。過度なストイックさだけでは、心が疲弊してしまいます。

同じ働くのであれば、楽しく面白く取り組める道を模索したいものです。

心豊かな余白を持ちながら、高め合える仲間とともに歩んでいきましょう。

クリエイターという尊い職業の真の価値

漱石が語るように、クリエイターは人の心を豊かにする尊い存在です。しかし自分を追い詰めて疲弊しては意味がありません。むしろクリエイターの価値を高めるため、自ら環境を整える必要があります。

表現者自身が豊かな心を持つことが何より大切です。作品を通して面白さを届けることこそ、本来の役割と言えます。

久しぶりに『草枕』を読み返し、改めてその大切さを実感しました。

ちなみに…

ちなみに、『草枕』が誕生した背景には、漱石自身の壮絶な体験があります。

1900年、漱石は文部省の命でイギリス・ロンドンへ留学しました。しかし異国の地で強烈な孤独とカルチャーショックに見舞われます。その結果、深刻な神経衰弱(うつ状態)に陥ってしまいました。

帰国後、彼は熊本の小天温泉へと旅に出ます。そこで見立てた「画のような世界」をもとに描かれたのが『草枕』です。

人間関係の摩擦から離れ、いかに心を解き放つか。漱石自身が身を削る苦悩から辿り着いた境地と言えます。

ストレス社会で生きる現代のクリエイターに深く刺さるのは、漱石自身が身を削る苦悩から「心の豊かさ」を再発見した知恵だからと言えます。また、この作品は海外でも高く評価されています。

天才ピアニストのグレン・グールドは『草枕』の英訳本を生涯の愛読書としました。彼の臨終の枕元には、聖書と書き込みだらけの『草枕』が置かれていたと言われています。

世界的な芸術家も、漱石が提示した「非人情の美学」に深く心を救われていたのです。

感情に流されるな、一歩引いて世界を鑑賞せよ。

自らの心を豊かに保ち余暇を慈しむとき、あなたの創り出すモノは真の尊さを輝かせる。

草枕

というお話でした。

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