認知的不協和
Cognitive Dissonance
安く・早く・高品質に。Web制作の現場で繰り返されるクライアントからの三重苦。その三つが同時に成立しないことは、作り手なら誰でも知っている。しかしクライアントは純粋にも本気でそれを求めてきます。今回は 妥協の美学 っていうお話。
「安く・早く・高品質」という矛盾
1957年、アメリカの心理学者 レオン・フェスティンガー(Leon Festinger, 1919年5月8日 – 1989年2月11日)が提唱した「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」という概念があります。人が自分の中に矛盾した二つの認知を同時に抱えたとき、強い不快感が生じる——というものです。
例えば、「タバコは体に悪い(知識)」「でも吸いたい(欲求)」。この矛盾が不協和を生む。そして人はその不快感を解消するために、どちらかの認知を歪める。
「まぁ長生きしたい訳でもないし」「ストレスの方が体に悪い」——こうして矛盾を正当化します。
クライアントの「安く・早く・高品質」も、同じ構造です。三つが同時に成立しないことは、薄々わかってはいるものの、しかしそれを認めると、予算や納期の設定が甘かった自分を認めなければならないので、矛盾を直視せず、「できるはずだ」と信じ込もうとする心理が働きます。
つまり、無理難題を押しつけてくるクライアントは、悪意があるわけではなく、認知的不協和を解消しようとしているだけなのです。
プロデューサー「調律師」
では、作る側はどうすればいいか。矛盾を正面から論破しようとしても、なかなかうまくいきません。「それは無理です」と言った瞬間、交渉は決裂してしまいます。不協和を突きつけられた相手は防御態勢に入るからです。
ここで役に立つのが、「認知的不協和の解消を手伝う」という発想です。
例えば、「安く・早く・高品質」の三つのうち、どれを最も優先するかをクライアント自身に選ばせます。「品質を最優先するなら、この納期と予算になります」「スピードを優先するなら、この範囲でできます」——ポイントは選択肢を提示することで、矛盾の整理を相手にしてもらうことです。
押しつけるのではなく、一緒に不協和を解消していく。それこそが制作現場におけるプロデューサーの割です。演奏者の音を合わせる調律師(チューナー)に近い役割と言ってもいい。
妥協は敗北ではなく着地点
「妥協」という言葉には、どこか後ろめたさが漂います。しかしそれは誤解で、妥協とは「諦め」ではなく、複数の制約条件の中で最善の着地点を設計することだと解釈したらどうでしょう。予算・納期・品質のどれかを調整することは、敗北ではなく、現実に対して誠実であるということです。
むしろ問題なのは、妥協の過程を曖昧にしたまま進めることです。「まぁなんとかなるだろう」で動き始めたプロジェクトは、必ず終盤で歪みが噴き出して破綻します。それは認知的不協和を解消しないまま走り続けた結果なのです。
着地点を明確にすることは、プロデューサーとしての責任です。クライアントの認知的不協和を整理し、チームの認知的不協和も整理し、全員が同じ現実を見ながら動ける状態をつくる。そこに「妥協の美学」があるのです。
ちなみに…
フェスティンガーが認知的不協和の研究を始めたきっかけは、1954年にアメリカで実際に起きたカルト集団の事件でした。「世界が滅亡する」と予言した集団が、予言が外れた後もむしろ信仰を強化した——という現象を観察したことが出発点です。
予言が外れれば信者は離れると思うのが普通ですが、しかし実際には逆のことが起きたのです。「自分たちの祈りが世界を救った」という新たな解釈を生み出すことで、不協和を解消したのです。これが認知的不協和の恐ろしさでもあり、人間の心の柔軟さでもあるのです。
コグニティブ・ディソナンス
というお話でした。
~ 本文で参考にした書籍をご紹介 ~
(出典・参考)